読書

【書評?】『読みたいことを、書けばいい』(田中泰延)を読んで考えたこと

本を読むのは好きなので、このブログでも書評にチャレンジしてみたいと思う。そこで最近読んだ『読みたいことを、書けばいい』という本について書いてみよう。

アマゾンでこの本の著者である田中泰延という方について調べてみると、この本が処女作であることがわかる。そういえば本の中にも「いままで本を書いたことがないのに書き方指南本を書いてしまった」的なニュアンスの文章があったと思う(無かったらスマン)。

しかし、文章の素人というわけではなく、電通でコピーライターをやったり、フリーのライターをやったりしていたらしい。文章を書こうと思うなら何かしら参考に出来る点はあるはずだ。

私もブログを書き始めた身なので、文章の書き方にていて学べそうなこの本が目に止まった。そこで購入して読んでみた。個人的に思ったこと、考えたことを本の中身を引用しながら書いていく。

自分が読んで面白くない文章を他人が読んでも面白いわけがない

だから、自分で読んで面白い文章を書こう。これがこの本を通しての筆者の主張であると思う。この主張を補強する為の文章が本書の至るところに散りばめられている。

これは確かにその通りではないだろうか。つまらなそうにしゃべる人の話をおもしろいと思った事があるだろうか?あまり思い出せないと思う。逆に楽しそうに喋る人の話は、話の内容がよくわからないのに退屈しない。そんな経験がないだろうか?

大学の講義で例えると...

大学の講義を受講してみると、話が面白い先生と話がつまらない先生がいる。「話がつまらない先生」とはどんな人だったのか思い出してみよう。

まず、めんどくさそうに講義をしている印象がある。メモやパワポを見ながらめんどくさそうにしゃべる。「そのメモやパワポもどうせ去年以前の使い回しだろう」と思わず思ってしまう(多分本当にそうだと思う)。

大学の先生は高校以前の教師と違い研究をすることが本業だ。「研究が忙しいのに授業なんてやってられるかい!」みたいな人も多いと思う。

日本の大学教員はただでさえ研究以外で多忙だ。自分の研究室の学生を指導したり、試験問題をつくったり、なんとか委員会の運営をしたり、雑務が非常に多い。講義を行うことも雑務の一つと捉えている先生もいるだろう。

そんな先生が講義を受けている側が見ても分かるくらい面倒くさそうに講義をしているのをみて、学生側がおもしろいとは思わないだろう。教える側が講義をオモシロイと思っていないからだ。あるいは、面白くしてやろうと思う気概がないのかもしれない。

これは大学の先生が一方的に悪いのではなく、大学の先生にいろいろ押し付け過ぎなのも悪いと思う。先生方が研究に集中できる環境を作り、自分の研究に関係の深いところだ講義をやってもらえば、面白い講義が増えるかもしれない。この辺の問題について書き出すと話がそれてしまうのでこの辺にしておこう。

一方、「おもしろいな」と思う講義を思い出してみると、共通するのは先生が楽しそうにしゃべているという点だと思う。なんというか勢いがあって、見ていて聞いていて飽きない。

勢いが重要

文章は書き手のイメージがしにくいので、しゃべりを例に書いてみたが、文章についても同様だと思う。書き手が楽しく書いている文章というのは読んでいても楽しいものだ。

書かれた文章を見て「これ書いている人楽しそうだな」というのはなんとなくわかる。しゃべりと同じで、文章に勢いがあるような気がするのだ。

何を書くかについて悩んでいる感じがしなくて、勢いのままキーボードを叩いていそうな文章は読んでいても面白い。

勢いがあるのは「もっとしゃべりたい」という思いが前に出た結果だろう。しゃべっていて面白いからもっとしゃべりたくなり、勢いが出てくる。

逆に、作業的にそれっぽいものをコピペしてそれをつなげていそうな文章というのは読んでいてつまらないものだ。去年の講義資料を朗読して講義する大学教授のようなものだろう。

ただし勢いだけで文章を書いて、誤字脱字だらけではダメだ。いくら本人が楽しそうに話していてもカミカミだったら流石につまらないだろう。自分で書いたものを実際に読んでみて突っかかる部分がないかを遂行し、編集する必要はある。これによって「書いていて面白い」から「自分で読んで面白い」に進化することができるだろう。

読み手は想定しなくていい

この本に次のような記述がある。

・読み手など想定して書かなくていい。

・その文章を最初に読むのは、間違いなく自分

・自分で読んでいておもしろくなければ、書く事自体が無駄になる。

本を見ながらではなく、読書のノートを見て書いたので、一字一句すべてが正確に引用できていないかもしれない。

要は「自分が面白いと思うかどうか」をフィルターにして、書いた文章を世に送り出すかを決めろ、ということだろう。そうしないと自分も含めて誰からも需要がなくて書く事そのものが時間のムダになる。

最低限自分で読んで面白ければ、「類は友を呼ぶ」で面白がってくれる人が出てくるはずだ。

つまらない文章を書く人たちの正体

ここでいう「つまらない文章を書く人」とは、「自分で読んでおもしろくない文章を書く人」と「読み手のことを真っ先に想定して文章を書く人」である。

こんな人達が書いていそうなサイトを思い出してみて、真っ先に浮かんできたのはいわゆる「わかりませんでした!いかがでしたか?」系のサイトである。

これ系で「本気で調べたくて調べた!」感があるサイトはめったに無い。自分が調べたいから調べたのではなく、世間人が知りたそうなネタを調べて文章を書いているようにしか思えない。

内容もどっかで聞いたことのあることばかり。「それ既出じゃね?」という情報を並べ立てるものの結論はページのずっと下の方にあり、頑張ってそこまで見ても「わかりませんでした」「かわいいからきっとかっこいい彼氏がいるんでしょうね」みたいなしょうもない結論が書いてある。

既出の情報でも楽しそうに勢いよく書いてあれば面白く読めるものだがそういうこともない。

ページが長い割には情報の密度は薄い。SEOを意識して文字数をかさ増ししているのだろうか?

こういったブログをお金儲けの手段としか考えていない人たちが迷惑な文章を量産していると言うことだ。

極端な例だったかもしれない。しかし集客やお金儲けを強く意識しだすとこういう人たちの仲間入りをしてしまう可能性はある。

そのほかに気になった記述など(箇条書き)

ちまたにあふれるネット上の文章には「無人島の大発見(※)」が実に多い。そんなこと、先人が考察して大昔に語り尽くしとるわ、というようなことを、自分の頭で考えようとして得意げに結論をぶちかますような随筆だらけである。

(※)の「無人島の大発見」とは著者による造語である。「車輪の再発明」と同じニュアンスだ。

「車輪の再開発」という概念があるにの、「無人島の大発見」という新たな言葉を定義してるところが「無人島の大発見」状態になっているところが面白い。これは多分著者が「車輪の再開発」を知らないわけではなく、おもしろくするためにわざとやっているのだろう。

結論の重さは過程に支えられる

逆に言えば「すごい結果があるとき、それを支える過程もすごいものである」ということか。

このブログでも日報と称して「人生の過程」を書いているが、将来的に私がすごい結果を得られた時、この日報たちも重要な情報として価値を持つようになるだろう。それが楽しみで日報を書いている。

言葉とは相手の利益になる使い方をすれば、相手の持ち物も増え、自分の持ち物も増える道具だ。

つまりいい文章を書いたら書いただけ利益が増えるというプラスサムゲームになるということだ。これは文章を書く者に勇気を与える。私にもやる気が湧いてくる。

短いがいい文章だと思うので、よく覚えておこうと思う。

この本の内容をどのように活かすか

私もブログ記事をアップロードするからには人に見てもらいたいと思うことはある。しかしその思いが強くなりすぎて読者への意識が強くなりすぎると、いかがでしたか系のサイトを馬鹿にできなくなってしまうかもしれない。

「自分で読んでおもしろいか」フィルターは必ず通しておきたい。それが読者への最低限の礼儀だとも思う。自分が読んでつまらない文章をお構いなくアップロードするのは通行人にゴミを投げつけるようなものだ。

文章を公開する上で最低限の礼儀について考えることができた。それだけでもこの本を読んだ価値はあった(著者が礼儀について述べたかったわけではないだろうが)。